古典電磁気学の歴史を見てみる
マクスウェル方程式の完成によって確立した『古典電磁気学』。
その発展の経緯を見てみると、偉人達の生き様から得られる学びが多くあることに気がついてきます。少しでも、面白いと思っていただければ幸いです。
年表
簡易的な年表を作成してみました。(誤りがあったら申し訳ありません。)
紀元前:琥珀による吸引の発見
タレス
紀元前約600~500年頃、古代ギリシャの哲学者であり「ギリシャ七賢人」とも呼ばれているタレスが、琥珀を擦ると埃を惹きつける現象を発見します。今では「静電気による吸引」と説明することが可能ですが、当時は静電気という言葉もなく、ただただ吸引されたという現象が観察されたに過ぎません。
ちなみに琥珀というものは”樹木の樹脂が土砂などに埋もれ化石化したもの”であり、古代ギリシャ語で「エーレクトロン」と言います。皆さんが現代で聞き馴染みのある「エレクトリック」や「エレクトリシティ」はここが語源になっているのです。
電気の物語は、ここから始まります。
近代電気学の幕開け
ウィリアム・ギルバート
タレスによる発見から2000年以上の時が経ちます。
ギルバートは、1544年、イングランド南東部コルチェスターに生まれました。
ギルバートは医師として働く傍ら電気や磁気の実験・研究を進めていき、1600年、研究の成果の集大成として『磁石論(De Magnete)』が出版されます。ラテン語で書かれた原著『磁石論』は、ガリレオ、ケプラー、ステヴィンなどの宇宙研究者に衝撃を与えたと言います。
『磁石論』は邦訳され読みやすいように纏められたものが販売されています。ギルバートがどのような考え方を持ち、実験を進めたのか見る事ができる貴重な本です。当然科学的な知見や技術は現代の方が遥かに上ですが、考え方・思想の部分はいつの時代も活かせるものだと思いますので、興味があれば是非読んでみては如何でしょうか。
このギルバートの大著書で着目すべきなのが、琥珀を擦ると埃を惹きつけるような現象は磁気力とは異なると実験により証明したところです。そしてギルバートは、この力と磁気力とを明確に区別するため「エレクトリケ」と命名します。現在「エレクトリケ」という名称は使われてはいませんが、広く電力を意味する「エレクトリシティ」へと繋がっています。
ギルバートが近代電気学の始まりである所以でもあるのです。
当時の日本の出来事
⇨1600年・・・関ヶ原の合戦
⇨1603年・・・江戸幕府が開かれる
静電気の時代
オットー・フォン・ゲーリケ
ゲーリケは、1602年、ドイツのマクデブルクに生まれました。
ゲーリケは、大学で数学や力学を学んだ後、イギリス・フランス・オランダに遊学。1627年に帰郷したのち『三十年戦争』で壊滅状態にあったマクデブルクの復興に尽力、そして1646年にマクデブルク市長になります。ゲーリケは大気圧に関する業績があり、1654年の『マクデブルクの半球』は有名です。
そんな市長時代の1663年、とある装置を発明します。それは、硫黄球に心棒をつけて回転させ、乾いた手で触れるとバチバチと音を立て弱い光を発するというものでした。
つまり、摩擦起電機がここから始まることになります。その後、ホークスビーによる摩擦起電機の改良、ミュッセンブルークによるライデン瓶の発明(諸説あり)等を経て、静電気を活用した実験・研究が盛んに行われることになります。
当時の日本の出来事
⇨1639年・・・ポルトガル船の来航禁止(鎖国開始)
⇨1657年・・・明暦の大火
⇨1669年・・・シャクシャインの戦い
シャルル・ド・クーロン
クーロンは、1736年6月14日、南フランスのアングレームにて生まれました。
クーロンは、もともと土木工学に関係した材料の研究を行なっていましたが、1785年に電気磁気の分野に興味を持つことになります。その後クーロンは、自身の発明した「捩り秤」を用いて重要な証明を行います。それが、
2個の帯電体の斥力(引力)は、これら両導体間の中心間の距離の2乗に逆比例する
ということです。つまり、クーロンの法則です。
$$F=k\frac{q_{1}q_{2}}{r^{2}}[N]$$
『クーロンの法則』は非常に有名であり、特に電気系の方には非常に馴染み深い法則だと思います。こうしてクーロンによって数式で表現される電気の法則が登場し、ギルバートから始まった静電気の時代のフィナーレを飾ることとなりました。
クーロンは、電荷の単位[C(クーロン)]として名を残しています。
当時の日本の出来事
⇨1787年・・・寛政の改革
動電気の時代
クーロンによって静電気の時代の幕が閉じ、ここから動電気の時代が幕を開けます。
アレッサンドロ・ボルタ
ボルタは、1745年2月18日、イタリアのコモに生まれました。
彼は王立学校及び大学で自然科学を学び、1774年コモの物理学教授になる頃には、電気の現象についてよく理解していたそうです。1775年に「電気盆」を作成し、1782年に、より精巧な電気盆と「蓄電器」を発明します。
ここで少しスポットライトをルイジ・カルヴァーニという人物に当てましょう。カルヴァーニは1786年、生物学者として蛙の解剖をしていた際、重要な気づきを得ることになります。それは、「2種の金属と蛙が接触した時、蛙の筋肉が痙攣を起こした」ということです。その後真理を追求するために実験を繰り返し、1791年『筋肉運動における電気の作用について』という論文を出版します。彼の主張は、「筋肉の痙攣は蛙から発生した動物電気である」ということです。
そしてスポットライトをボルタに戻します。彼はカルヴァーニの論文を読み、独自で真理を追求する為研究を進めます。その結果、カルヴァーニが提唱した「電気は蛙から発生した」理論とは異なり、「電気は2種類の金属が接触したことにより生じた」と提唱します。どちらの提言にも正しさと誤りはあるようですが、ボルタはこれをきっかけに「電気堆」を作ることになります。
電気堆は、銅と錫の円盤の間に水を染み込ませた厚紙を挟んだものを多数組み上げて作られます。
そして1800年、ボルタがイギリス王立協会会長宛に送った手紙が学会会員の前で読み上げられたり、機関誌にも掲載され広まることになります。ボルタ電池が発明されたことにより、時代は静電気から動電気へと移り変わることになります。持続的に電流を取り出せる装置が登場したことで、摩擦によって電荷を蓄積し一気に放電する装置とは違った研究がなされることになり、
・メッキ
・電気分解
・電気と磁気の関係
等、後の研究に大きな影響を与えることになるのです。ボルタは、電圧の単位[ V(ボルト) ]として名を残しています。
当時の日本の出来事
⇨1800年・・・伊能忠敬、蝦夷地を測量
ハンス・クリスティアン・エルステッド
エルステッドは1777年8月14日、デンマークのランゲラン島、ルドコビングに生まれます。
エルステッドはコペンハーゲン大学にて医学及び一般自然科学を学び、1799年に学位を取得します。先ほど紹介した、蛙の痙攣に関しての論争「カルヴァーニとボルタの論争」に刺激を受け、電気の領域で研究をすることになります。
・1801年:大学の助手
・1806年:コペンハーゲン大学の員外教授
・1815年:王立科学協会の幹事
・1817年:コペンハーゲン大学の正教授
といった変遷を経て、1820年、電磁気学発展の起爆剤となる発見をします。それが、
電流による磁針の偏向
です。つまり、電流による磁気作用を発見したのです。
この発見が各地に伝わると、
・アラゴ(⇨『アラゴの円盤』で有名)
・アンペール(⇨『アンペールの法則』で有名)
・ビオとサヴァール(⇨『ビオ・サヴァールの法則』で有名)
らによって、とてつもないスピードで電気と磁気の関連が解明されていくことになります。そして電磁気学の歴史の中でも最重要とも謳われる世紀の発見をしたマイケル・ファラデーへと繋がっていくことになるのです。
エルステッドの知名度は他の学者に比べて低いですが、発見の連続への起爆剤となった点でも大変偉大な業績を残しました。
アンドレ=マリ・アンペール
アンペールは、1775年1月20日、フランスのリヨンに生まれます。
アンペールは父からの影響で数学を学び、1800年、ブールの中央学校の教授となります。そして、
・1800年:パリ工業大学の講師
・1809年:工業大学の工業数学教授、科学院の会員
となります。1820年のエルステッドによる発見から僅か数週間後、アンペールは、電線を流れる電流の相互作用に関する研究の報告書を科学院に提出します。ここでアンペールは、2本の導体間に働く力を数学的に確立します。皆さんも学んだ覚えがあると思います。
$$F=\frac{μ_{0}I_{A}I_{B}}{2πr}$$
アンペールの法則、右ねじの法則も発見し、電気と磁気の関連性の発見に大きな貢献をしました。アンペールは、電流の単位[A(アンペア)]として名を残しています。
そして、そのまた数週間後、フランスのジャン=バティスト・ビオとフェリックス・サヴァールが『ビオ・サヴァールの法則』を発表します。
詳細は省きますが、電流の強さと導体の形から、導体周囲の磁界の強さが決まる公式です。
以上のように、エルステッドの発見から、アンペール、ビオ、サヴァールと1820年代の進展はとても重要であり急激なものとなりました。そして少し時を経て、1832年、マイケル・ファラデーの偉大な発見に繋がっていくのです。
当時の日本の出来事
⇨1815年・・・杉田玄白「蘭学事始」
⇨1821年・・・伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」完成
マイケル・ファラデー
ファラデーは、1791年9月22日、イギリスのニューイントン・バッツに生まれます。
父は鍛冶屋を業としていたと言われており、ファラデーはあまり裕福な家庭で育ちませんでした。受けた教育も十分でなく、初等教育程度にとどまっていたようです。このためファラデーは、数学の素養がなかったと言われています。ファラデーの詳しい生涯については参考文献をご覧いただきたいと思いますが、特にファラデーに大きな影響を与えたと思われる出来事を挙げておきます。
・13歳頃から製本屋で働き、多くの本を読む機会を作ったこと
・天才化学者ハンフリー・デービーに出会い、ヨーロッパ旅行に随伴したこと
このような様々な経験を経てファラデーは、1831年に電磁感応現象(電磁誘導現象)を発見します。
この発見からさらに様々な実験を繰り返し、『電気の実験的研究(Experimental researches in electricity.)』に収められることになります。この時、磁力線の概念が導入されることになります。
先ほど述べたように、ファラデーは初等程度の教育しか受けていません。数学はできませんでしたが、彼の実験・研究に対する態度と情熱は、新しい真理を見つけ出し、後の世の中に多大な貢献をすることになるのです。一つの物事から多くの疑問を持ち仮説を立てアイディアを凝らして実験をする。この領域におけるファラデーの能力の高さは、名著『ろうそくの科学』からも見ることができます。
情報に溢れる現代を生きる我々も、考えさせられることが多いように思います。
そしてこの後、ファラデーによる『電気の実験的研究』を熟読し数学的に理論を構築していったのが、天才理論家ジェームズ・クラーク・マクスウェルだったのです。ファラデーが苦手とした数学の部分を、後継者が担っていくのです。なんとも、運命的で奇跡的なストーリーですね。
当時の日本の出来事
⇨1832~38年・・・天保の大飢饉
⇨1837年・・・大塩平八郎の乱
古典電磁気学の確立
ジェームズ・クラーク・マクスウェル
マクスウェルは、1831年6月13日、スコットランドのエディンバラに生まれます。
10歳の時エディンバラ中学に入学したマクスウェルは、友達付き合いは上手くいかなかったものの、数学に関して賞金を得るなどして早速天才の片鱗を表してきます。14歳で「卵円形曲線」に関しての発表を行うなどした後、16歳でエディンバラ大学に入学。同じ学校の友人知人は、マクスウェルの天才的な頭脳と会話の節々に現れる知識量に魅了されていたそうです。そしてエディンバラ大学を卒業後ケンブリッジ大学に入学し、ここでも、
・優等試験に合格(首席はラウス)
・スミス賞で首席合格
などの実績を残します。
そしてケンブリッジを卒業した後マクスウェルは、ファラデーの『電気の実験的研究』を愛読し、1855年(24歳)、『ファラデーの指力線について』という論文を発表しました。今でこそ「電気力線」や「磁力線」を当たり前のように習い受け入れていますが、当時ファラデーの考案した「指力線」は非常に斬新であり、多くの批判を集め理解されずにいました。この状況の中でマクスウェルが『電気の実験的研究』に真理を見出し、これに関しての論文を発表したということで、当時66歳になっていたファラデーは非常に感動を覚え、マウスウェルに手紙を書いたそうです。
絵に描いたようなエリートである天才理論家マクスウェルと、裕福でない家庭で育ちながらも自然の真理を実験と研究によって見出そうとした天才実験家ファラデーが、ここで結びつきます。
そして1864年マクスウェルによって『A Dynamical Theory of the Electromagnetic Field.(電磁場の動力学的理論)』が著され、マクスウェル方程式が初登場することになりました。が、ここで登場するマクスウェル方程式は、皆さんが見たことのあるものとは少し変わっています。
以上のように、空間における位置をx,y,,zの座標で表したため、全体として20の式になっており非常に複雑です。
この方程式が次に示される四つの式に『ヘルツ』や『ヘヴィサイド』らによって纏められていくことになります。
この4つの方程式が初登場する論文・資料が見つからなかったので纏められる経緯は紹介できませんが、纏め上げた一人『オリヴァー・ヘヴィサイド』の生涯は非常に興味深いので、最後に少し紹介したいと思います。
当時の日本の出来事
⇨1853年・・・黒船来航
⇨1854年・・・日米和親条約、日米修好通商条約(鎖国終了)
オリヴァー・ヘヴィサイド
ヘヴィサイドは、1850年5月18日、イギリスのカムデン街に生まれます。
イギリスにおいて、1837年から1901年の期間を『ヴィクトリア朝』と言いますが、彼が生まれた当時は非常に貧富の差が激しい時代でもありました。ヴィクトリア時代の衛星環境の劣悪さに関しては、youtubeにも多くの解説動画が上がっているのでぜひご覧ください。この時代の貧困家庭に生まれたヘヴィサイドは、猩紅熱の後遺症で難聴にもなってしまいます。さらに、家庭が貧しかったこともあり、16歳以降正規の教育を受けていません。初等程度の教育しか受けられなかったファラデーと似たものを感じます。このような、第三者から見て決して良い環境とは言えない中で、
・母親の姉が『チャールズ・ホイートストン(ホイートストンブリッジで有名)』と結婚
・1873年にマクスウェルの大著『A Treatise on Electricity and Magnetism(電気磁気論)』に出会い衝撃を受ける
等、様々な出会いがありながら、独学で「数学」と「電気工学」をマスターし活躍していくことになります。
ヘヴィサイドは、わずかな会社員生活(約6年間)を電信技師として過ごしており、退職後も電信の理論に関する論文を発表していくことになります。彼の主な実績を載せます。
・ヘヴィサイドの展開定理(部分分数分解)
・マクスウェル方程式を現在の形に整理
・同軸ケーブルの発明
・ヘヴィサイドの階段関数の発明
など、数学、電気の分野において多大な実績を残しました。私自身も独学に励むものとして、彼の独学力の高さには驚愕するところがあります。
偉人から学ぶ『学び』に対する姿勢と『電気』について
偉人の生涯も十人十色。全く同じ人生を過ごしている人はいませんが、共通点は汲み取れるような気がします。それは、世の中の真理を追求しようとする『学び』や『研究』に対する姿勢です。どんな生まれであっても、どんな経歴であっても、どんな環境であっても、真実を追求することに情熱を持ち続け探索する姿勢は、情報が錯綜する今の時代を生きる我々にとっても必要なことではないでしょうか。
また、現代を生きる我々が当たり前のように使用している電気も、このような偉大な人々の壮絶な人生の上に成り立っているのだと考えると感慨深いものがあります。今回は『電磁気学』にスポットを当てましたが、我々が便益を享受するためには、学問以外でも必要な努力がたくさんあります。
・理論をもとに実用的な機器(電灯・電動機・発電機等)を発明した発明家
・機器を進化させ普及させた企業の関係者
・電力系統を作り上げるために過酷な労働環境の中奮闘したインフラ関係者
など、様々な人の努力の上に、現在の豊かな生活があるのです。国は違えど、自然を深く理解し、電気の発展とともに人間の豊かさを確保してくださった先人の皆様への感謝を忘れないでおきたいものです。電気系の職種に携わるものとして、電気を使用するものとして、『電気』の在り方や意義を見つめ直してみようと思います。
参考文献
・藤宗寛治『電気にかけた生涯』(2014年)
・W.ギルバート(原著),板倉聖宣(訳・解説)『磁石(および電気)論』(2008年)
・ポール J.ナーイン 高野善永(訳)『オリヴァー・ヘヴィサイド ヴィクトリア朝における電気の天才 ーその時代と業績と生涯』(2012年)
・高橋雄造『電気の歴史 人と技術のものがたり』(2011年)
・James Clerk Maxwell『A Dynamical Theory of the Electromagnetic Field.』(1864年)
・植村栄治『ガウスの電磁気学研究について』(2013年)
・小山慶太『光と電磁気 ファラデーとマクスウェルが考えたこと』(2022年)